「代わりの人でも良かった。けれどそこに居たのはあなただけです」という承認の形


女の子に告白して振られるのは「負け」ではない。そんなことを考えたのは、はてな匿名ダイアリーで振られることを「負け」と表現しているものを見たからである。もちろん女の子に振られたらショックを受けるのは分かる。けれどもショックを受けることはイコール負けではない。負けというなら何かの勝負をしていたはずだが、この場合には、何に対して勝ったか負けたかというのかが不明瞭だ。対象の存在しない勝負事など存在しない。ひょっとして彼女がいることが勝ち組という価値観に負けたとでも言いたいのか。あるいは相手の女の子に対して負けたとでも言いたいのか。いずれにせよ本質を見誤った考え方だと思う。

もし、彼女がいるのが勝ち組という価値観に「負け」たのだとしたら、それは振られたときではなく、ショックを受けて次の相手を探す気力がまったくなくなってしまったときである。世間は誰が何回振られようがそれほど重視はしない。それでいちいちショックを受けてしまうのは、傷つきやすいというよりは自意識過剰というものであろう。

また、女の子に対して「負け」たのだとしたら、それは振られたときではなく、その子をかけがえのないものと思った瞬間だ。すなわち、恋の駆け引きに負けたということである。ある女の子をかけがえのないものだと思えたということは、その子と心地の良いコミュニケーションがあったのだろう。女なんていくらでも代わりがいると達観してしまっているならば、たとえ告白の結果がどんなことになろうがショックは受けないはずだ。女の子に対して「負け」たのなら、ショックを受けたり恨みつらみを言うのではなくて、土下座して「楽しい時間をありがとうございました」と言っておいたほうが良いと思う。そのほうが健康にも良い。

それに、振られようが振られまいが相手から代替不可能な個人として承認されているかどうかは関係がない。要は相手の時間軸、物語のなかで位置づけられているかどうかである。告白された女の子が、その女友達たちに「実は昨日、××くんから告白されたの」と言った時、その中に入る個人名は代替不可能である。虚言癖でもない限りは告白してきていない△△くんの名前が入ることはないのである。ただしこれだと代替不可能であるが、まだ承認されたとまでは言えないかも知れない。相手の女の子から告白してきたたくさんの人間のひとりとして認識され、その後思い返されることがないかも知れないからである。そうした意味で、告白それ自体ではほとんど意味をなさない。それよりもふたりがどのような道を歩んできたかであろう。

けだし、ほとんどの人間は、その機能面において代替が可能である。「洋服を買ってくれる」とか「会う」「セックスする」というような個々の行為は、ぶっちゃけた話をすると他の人にお願いすることができる。しかし「この洋服をどこどこで買ってくれたのは××くん」「精神的にキツかった時期にちょこちょこ会ってくれたのは△△くん」というように過去のできごととなったものはもはや個人名を書き換えることは不可能になる。それがその人の人生の物語のなかに位置づけられたとき、その行為をなした人は代替不可能な個人として承認されたと言えると思うのだ。すなわち特殊な能力を持たない「普通の人」は、ある瞬間において代替不可能な個人であるのではない。告白が承諾されるか否かに気を病む暇があるのなら、女の子にとって代替不可能な個人となれるように振舞うべきだと思う。

恋愛による承認欲求は独占欲であってはならない。自分の知っているある人は、恋人が他の男と出歩くことに異常な嫉妬を感じていたようである。恋人の仕事での付き合いにまで口を出したらしく、ケンカにもなったようである。結局数ヶ月で別れた。代替不可能な個人として承認されることと、相手を独占することを間違えてはならないと思う。

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