政治的な正しさを追求した作品が現実的であるとは限らない。
川原泉という人の漫画が問題になっている。恋人の男にホモ判定テストなるものをやる漫画を描いて、同性愛者差別だと大合唱が起きているようである。
自分は川原という人にまったく興味はもてなかったのだけれど、差別をしない、政治的に正しい作品ということを考える議論には加わろう。
まず以下の文章を読んでいただきたい。
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男子校の教室で、ある朝登校した生徒がゲイのイベントのチラシが落ちていることに気づいた。そして始業前の教室は「ホモ狩り(=犯人探し)」で大混乱に陥る。
混乱は始業の時間になっても続き、担任の体育教師が入ってきて何事かと問いただす。
ひとりの生徒が事の顛末を説明する。すると体育教師は「それは俺のだ!」と激怒。ホモ狩りの首謀者はお仕置きとして「同性愛に理解を持たせるため」延々とホモビデオ鑑賞をさせられる。
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以上は俺が書こうと思ってボツにしたネタのあらすじである。
この話に対してツッコミはあろう。教育の場でそんな「お仕置き」をやったら絶対保護者から苦情が来るだろうとかね。しかしこの件で意見を書いていたululunさんの意見に対しては反論できる。
正しい性的交渉に対する情報だけを取り扱ったら「よい子の為の初めてのセックス」的な本当にツマラナイ性教育漫画しか描けない。
俺は上の話でゲイを差別する人間の愚かしさを描いたつもりだ。面白いかどうかはともかく、非現実的である。
けだし作品を通じて差別をしないといった政治的な正しさと、正しい性交渉に対する情報を取り扱うこととはまったく別問題である。
俺はフィクションである以上、いくらとんでもないストーリーにしても構わないと思う。ただし、作品の背後にある思想は、面白さや非現実的かどうかなどとは別の次元で評価しなければならないとも思うのだ。