ネットがある時代に、メディアに何を期待しているのか?


マスメディアに対する不信感のひとつに「他人が喋ったことを編集して報道する」というものがある。


もちろん明らかに趣旨を曲げるものは論外だ。けれども僕は「編集」という行為そのものを否定するつもりはない。


たとえば1時間のインタビューがあったとする。それをすべて原稿用紙に起こしたらどうなるか。最大で約60枚近くになる。取材したことを全部書いていったら紙面がパンクする。オンライン上に置いたとしても、おそらく誰も読んでくれないだろう。


だから僕は、言っていないことを書いた、趣旨を捻じ曲げられたということに対しては容赦なく断罪すべきだと思うけれど、言ったことを書いてくれなかったということについて糾弾する気にはなれない。何にニュースバリューがあって、何は書くに値しないのかという判断は記事の書き手にゆだねられるべきだ。


もちろん、取材を受けた側がネット上で「取材に対してこう答えたがその部分は書いて貰えなかった」っと書くのは自由である。


最近になって問題になったメディアの偏向問題だけれど、なにもこれは今に始まったことではない。たとえば今から30年以上前、当時総理大臣だった佐藤栄作は「偏向した」新聞が嫌いだった。彼は退陣会見で新聞記者を追い出し、ひとりでテレビに向かって演説した。


ネットがない時代にはメディアから一方的に書かれることは致命的であったろう。そうした時代にあって、メディアは今よりも公正中立でなければならなかった。しかし、ネットがある現在、いったいメディアに何を期待しているのだろうか。


ここでひとつ重要なことがある。言っていないことを書かれた、趣旨を捻じ曲げられたと怒る政治家はいても「言ったことを書いてもらえなかった。書け」と抗議する有名人を見たことがない、ということである。(いたらかなり見苦しい。)自分のHPでこれこれはこういうことだったと書くだけである。


その理由ははっきりしている。政治家なら、自分のHPすら見ないような人が一票を投じてくれるはずはない。だから、見てくれる人だけを相手にすればよい。自分のHPすら見てくれない人は、そもそも相手にする必要がないのである。


「自分の喋った事を、すべて、万人に、誤解のないように、伝えろ」という発想は、自分が言葉を語るべき対象を定めていない一般人ゆえに起こることではないのかと思う。