取材プロセスの開示を考える


佐々木俊尚氏が提唱している「取材プロセスの開示」について考える。


個人的な価値観を言えば僕は取材プロセスの開示には肯定的だ。どのような仮説をもって取材を行い、それに対して取材対象者はどのように答え、最終的にどのような記事にするのかという一連のプロセスの開示には意味があろう。


だが取材を受けた側が取材プロセスを開示することを無条件には肯定しない。それは取材を受けた側が恣意的な編集をして開示しないとは言い切れず、そうしたことは記者に対して余計な負担をかけることになるからだ。


佐々木氏は自身が経験した、ロードオブザリングの字幕問題ということをあげている。しかしこのテーマは政治性が低すぎる。たとえば朝日新聞ネット右翼を取材したとするとどうなるのか。取材を受けたネット右翼側には「取材に来た朝日の記者を徹底的に論破した自分」を演出したいという気持ちが働くであろう。


近年、電凸(電話突撃)と称してマスコミや官公庁などに直接電話したものが掲示板に書き込まれたりブログに書かれたりする。完全な捏造があるかどうかはともかく、どこまでが実際のやりとりに忠実なものなのか分からないものもある。


むろん取材対象者が自分をかっこよく見せたい気持ちを抑えて本当にあったやりとりをありのままに書くこともできよう。しかし、それは個人の倫理観にゆだねられている。そして、そうしたことが起こったときに記者の側が対応しなければならないとすると、取材活動自体が記者に対して相当な負担を与えることになる。


たとえば3時間インタビューして、フルに喋ったとする。これを全部テキストにしたら原稿用紙100枚をゆうに超える。テープ起こししなかったとしても、問題となった箇所を確認するためには一度通して聞きなおさなければならない。これは取材活動の邪魔になるのではないか?


以上のことから、僕は個人的には取材プロセスの開示に賛成なのだけれど、あまりそれを煽らない立場を取ろう、と思う。


【言及記事】インターネットが取材を変える日
http://blog.goo.ne.jp/hwj-sasaki/e/1e4a7c59538a01659983ad62dd050a02