謙遜語としての「どうでもいいが」


はてなを見ていたら「どうでもいい」といいつつ延々と意見を書くひとのことだとか、スルーする力についての議論をやっている。それはそれで面白い話題なのだが、自分はそもそも「どうでもよい」に対して「どうでもよいなら言及するな」という突っ込みをすることが野暮なものであると思っている。


残念なことに自分と同じ考えの人はいないようだ。強いて挙げるなら、


mixi はどうでもよいのだが、その社会的影響力について興味がある」とかそういうの。
まぁこの例も、「本当にどうでもいい」のか「本当はどうでもよくない」のかは外部からは完璧には判断がつかない。
もしかすると本人自身も誤認している可能性すらあったりするかもしれないが、そこを思い込みで「本当はどうでもよくないくせに。どうでもいいならスルーしろ」などといっても虚しい。

http://zeromemory.sblo.jp/article/1657934.html


この考え方が一番近いかな。でもちょっと違う。「どうでもよい」は「スルーする」という意味ではないのだ。


たとえば「どうでもよいが、ミクシィは××なので○○したほうが良い」というような意見を書いた場合、ここででてくる「どうでもよい」は「これは私の個人的な意見だ。最終的に相手がどういう決定をしても良いと思っている」というのと同義である。そういう意味で使った場合、どうでも良いなら言及するなと煽られるとムカっとするわけである。相手がどういう決定をするかは自由だが、お前に言われたかないよと。


自分の権限外のこと、自分と直接の利害のないことについて言及するときに「どうでもよいが」と言うのは、謙遜である。これに対してツッコミを入れるのは「君がどうしようと自由だが……」というのに対して「自由だと思うなら余計な口を差し挟むな」と言うようなものだ。君がどうするのかは自由だが、僕に意見を言う自由もある。どうでもいいが、意見は言いたい。


まぁそういうわけで「どうでもいい」にツッコミを入れるのは野暮であるということだ。