批評家が抑えるべき感情


批評家エセハラの憂鬱を読んで考えたことを色々。


似非原さんは村人が批評家に対して「高みから偉そうに言う」と言う事態を描いているのだけれど、最近はむしろ批評家が「高みから偉そうなことを言う」村人たちに不快感を感じることが多いんじゃなかろうか、と思った。むろんそれは批評家として否定されるべき感情なのだけれど。


以前、初めて小説にチャレンジした奴が「原稿用紙15枚の大長編を書いた」とか言っていて、思わず「馬鹿!俺が昔書いた『短編』は30枚あったよ」と叫びたくなったことがある。


自分はこのブログでは通常800字程度、長くても1200字程度の文章しか書いていない。だからその30枚の小説は、自分が書いたなかでは長い部類に入る。でも客観的に見れば「短編」だ。


「書くのに掛かる時間」と「読むのに掛かる時間」はケタが2つくらい違う。書くのに5時間(300分)掛けた作品は読むのに5時間掛かる大長編という訳ではないのだ。感覚的に言うと5分くらいで読み終わる。これを自明のこととして理解していない人も、意外に多い。書いた側にとって、何時間も掛けて書いた文章を1行レスで否定されるのは、愉快なことではあるまい。


しかし僕はネットで育った人間として、それもありだと思っている。人を精魂込めてやった仕事を貶すこともあるであろう評論家は、自分の文章が一瞬で否定されることにも寛容でなければならないと思うのだ。



おまけ:似非原さんと俺の文章の比較

「批評家エセハラの憂鬱」 … 約7,000字
この文章 … 約600字


……俺も高みから偉そうなことを言ってますね。