ネットにおける社会参加感覚

金田智之さん(id:using_pleasure)さんが「ネット時代の左翼クロニクル。」と称してこのような文章を書いておられた。

http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/20060401/1143860017

かつて左翼の集会なんかに参加して、懇談会などで運動論なんかになり理念論を振りかざしたりすると「じゃあ君は実際にどんな活動をやってるの?」というような切り替えしをされたものだ。どんなに理念論を振りかざしていても、当人が何らかの実践を行っていないとマトモな左翼としては、(少なくとも)コミュニティからは扱ってもらえなかった。大昔なら、その「実践」には非合法活動も含まれていたのかもしれないけど、今は比較的ソフトで、デモに参加したりするくらいでいい。けれど、ともかくも「左翼」ということを自称するにはそれなりの覚悟が要請されたのは確かで(そういう覚悟を持ってないと、上の世代の人に「お前はそれでも左翼なのか!!」みたいにどやされる)、ネットのコミュニケーションというのはそれ自体が目的となることはなく、重要なのはあくまで「現場」の実践だった。


実践、ということの意味するところが僕と金田さんでは違うな、と思った。


小渕内閣のころだったと思うが、僕は首相官邸ホームページの意見募集のフォームに自分の意見を書いて送ったことがある。何について書いたかは忘れてしまった。


で、意見を送った当時は知らなかったんだけど、小渕総理が亡くなった後出版された「凡宰伝」という本のなかで、こんなことを知ったのである。


何があったのかというと、取材に訪れたその本の筆者に、小渕総理は印刷されたメッセージの束を見せて「10代の若者たちからもたくさん意見が来ている、彼らがいれば日本は大丈夫だ」というようなことを言ったというのである。そのくだりを読んだとき、自分は不覚にも目頭が熱くなってしまった。


政治家のリップサービスだった可能性も高いけど、ともかく現代「権力者は君たちの意見を聞いている」というメッセージは、繰り返し流されている。


そして一方に「政策は最終的には権限を持った人が決めること」という意識がある。これらのことから「言うべきことは権限を持った人に直接言って、判断を待つ」ということが導き出され、そこから以下のような運動が生まれてくる。

  • 政治家にメールを送信する
  • 実際に電話を掛けてみる


集団で行動するとどうしても完全に自分の意見が反映されるわけではない。だから自分で書いた文章を送れるメール送信が好まれるのだ、と思う。少なくとも僕はそうだ。


ネットでのコミュニケーションはあくまでも議論によって自分の見識を高めるためであり、また、世論を形成するための手段である。そのことは変わっていないと思う。金田さんから見てネットでのコミュニケーションそれ自体が目的になっているような人がいるのであれば、それは単にネットに取り憑かれているという心理的な問題であって、運動論のような論理のレベルの問題ではないと思う。


僕は正直なところ、デモによる示威行為といったものに魅力を感じていない。しかし、だからと言って現実で動くことに価値を見出していないわけではない。