「非日常」を相対化するものとしての「日常」


大学生になりたてのころ、2chで祭られたことがある。今のハンドルネームを名乗る前のことだ。自分は大学のサークルの掲示板でも同じハンドルネームを使っていたために、その掲示板に2ちゃんねらーが突入する事態に陥った。


翌日だったか翌々日だったか、顔面蒼白となってサークルの部室に行った。そこには軍オタで2ちゃんねらーの先輩がいた。事情をある程度知っていた先輩は、茨城なまりのある声で、こう言った。


「あんなものはね、一度言って分からなかったら放っておけばいいんですよ。」


僕はこの言葉にどれほど救われたか分からない。


僕は別段それほどネットと現実というものを切り離して考えてはいない。けれど、世の中には、ネットを日常と切り離し、非日常の世界のように感じている人たちがいる。ネットをする時間の長さに関わらず、ネットをあくまでも日常と切り離された非日常と感じている人たち。


そう感じている人は、その非日常が日常を侵食してしまうような錯覚に陥ったときに混乱する。ネットと現実が切り離されたものだとは思っていない僕でも、2ちゃんねるのスレからサークルの掲示板に突入されたときには混乱した。まぁ人間ってそういうものである。


しかし、本当に非日常が日常を侵食してしまうことなど、滅多にない。むしろ、僕の先輩が議論そのものを無視してメタな視点でものを言ったことによって僕が救われたように、日常というのは非日常を相対化しうるものなのだと思う。


あと、関係ないけど、ネット慣れした家族がいるってのは良いことだね。