「いただきます」について

考:「いただきます」って言ってますか? 「給食や外食では不要」ラジオで大論争

僕自身は、毎日のように学校のクラス全員が「いただきます」を唱和することに意味があるとは思えない。


まず「いただきます」という言葉について考えてみる。


英語には「いただきます」「ごちそうさま」の表現が存在しない。「Let's eat」なんて「さー、食うぞー」だし、「I'm finished」なんて「食った」って言ってるだけじゃないか。

http://d.hatena.ne.jp/TERRAZI/20060122

それはたしかにそうなんだろうけれど、それをいうなら日本(仏教圏)には「食前の祈り」のような文言はないのではないかと思う。それぞれの国、文化圏に食事に対する感謝の表現があって、そしてその省略形があるというだけではないかと思う。


ちなみに僕は日本語の「いただきます」は、何に対する感謝なのかが不明確だと思う。この件について言及しているはてなダイアリーの日記を見てみたけれど、感謝の対象は、食べられてしまう生き物、料理してくれた人、あるいはそれらをすべてひっくるめたすべてのもの、など説は分かれている。どうにでも受け取れる曖昧さが良いとは思えない。


だからといって僕は「いただきます」と唱和することを完全に否定するわけではない。学校の給食でやる「いただきます」の唱和は集団のなかのマナーという要素が大きく、金を払って食べているかどうかなどまったく関係がない。集団で何かを共有することに意味がある。それは飲み会で幹事の挨拶を聞かず乾杯をする前に飲み食いを始めるのが非常識なのと同じことだ。


だからと言って、毎日のように意味なく集団の儀礼を行う必要はない。そもそも毎日唱和することに慣れたら「いただきます」の原義である「感謝」の感情は薄れるだろう。


だから、たとえば秋になって新米が出回り始めるころに「そろそろ新米が出回り始めるころです。今年も無事豊作であったことを祝いましょう。いただきます」という教師の簡単な挨拶とともに一斉に食べ始める、など節目節目でそういうことをやればよいのではないか、と思う。





【以下、自分用メモ】


このメモで挙げたURLに、自動トラックバックを送ってしまいました。申し訳ありません。不愉快でしたら削除してください。


http://d.hatena.ne.jp/telaviv/20060121
給食の関係者の指摘。親から徴収した給食費だけではなく(子供のいない国民からも徴収した)税金が支出されているという話。


主張の分類。