「代わりの人でも良かった。けれどそこに居たのはあなただけです」という承認の形


女の子に告白して振られるのは「負け」ではない。そんなことを考えたのは、はてな匿名ダイアリーで振られることを「負け」と表現しているものを見たからである。もちろん女の子に振られたらショックを受けるのは分かる。けれどもショックを受けることはイコール負けではない。負けというなら何かの勝負をしていたはずだが、この場合には、何に対して勝ったか負けたかというのかが不明瞭だ。対象の存在しない勝負事など存在しない。ひょっとして彼女がいることが勝ち組という価値観に負けたとでも言いたいのか。あるいは相手の女の子に対して負けたとでも言いたいのか。いずれにせよ本質を見誤った考え方だと思う。

もし、彼女がいるのが勝ち組という価値観に「負け」たのだとしたら、それは振られたときではなく、ショックを受けて次の相手を探す気力がまったくなくなってしまったときである。世間は誰が何回振られようがそれほど重視はしない。それでいちいちショックを受けてしまうのは、傷つきやすいというよりは自意識過剰というものであろう。

また、女の子に対して「負け」たのだとしたら、それは振られたときではなく、その子をかけがえのないものと思った瞬間だ。すなわち、恋の駆け引きに負けたということである。ある女の子をかけがえのないものだと思えたということは、その子と心地の良いコミュニケーションがあったのだろう。女なんていくらでも代わりがいると達観してしまっているならば、たとえ告白の結果がどんなことになろうがショックは受けないはずだ。女の子に対して「負け」たのなら、ショックを受けたり恨みつらみを言うのではなくて、土下座して「楽しい時間をありがとうございました」と言っておいたほうが良いと思う。そのほうが健康にも良い。

それに、振られようが振られまいが相手から代替不可能な個人として承認されているかどうかは関係がない。要は相手の時間軸、物語のなかで位置づけられているかどうかである。告白された女の子が、その女友達たちに「実は昨日、××くんから告白されたの」と言った時、その中に入る個人名は代替不可能である。虚言癖でもない限りは告白してきていない△△くんの名前が入ることはないのである。ただしこれだと代替不可能であるが、まだ承認されたとまでは言えないかも知れない。相手の女の子から告白してきたたくさんの人間のひとりとして認識され、その後思い返されることがないかも知れないからである。そうした意味で、告白それ自体ではほとんど意味をなさない。それよりもふたりがどのような道を歩んできたかであろう。

けだし、ほとんどの人間は、その機能面において代替が可能である。「洋服を買ってくれる」とか「会う」「セックスする」というような個々の行為は、ぶっちゃけた話をすると他の人にお願いすることができる。しかし「この洋服をどこどこで買ってくれたのは××くん」「精神的にキツかった時期にちょこちょこ会ってくれたのは△△くん」というように過去のできごととなったものはもはや個人名を書き換えることは不可能になる。それがその人の人生の物語のなかに位置づけられたとき、その行為をなした人は代替不可能な個人として承認されたと言えると思うのだ。すなわち特殊な能力を持たない「普通の人」は、ある瞬間において代替不可能な個人であるのではない。告白が承諾されるか否かに気を病む暇があるのなら、女の子にとって代替不可能な個人となれるように振舞うべきだと思う。

恋愛による承認欲求は独占欲であってはならない。自分の知っているある人は、恋人が他の男と出歩くことに異常な嫉妬を感じていたようである。恋人の仕事での付き合いにまで口を出したらしく、ケンカにもなったようである。結局数ヶ月で別れた。代替不可能な個人として承認されることと、相手を独占することを間違えてはならないと思う。

関連エントリ

本当はアマチュアも無償で商品を作ってはならない

いろいろな条件つきではあるけれど、根本的な部分においては、アマチュアも無償で物を作ってはならないと思う。「プロは無償で商品を作ってはならない」という有村悠さんの問題提起を読みながらそう思った。
有村さんのエントリに対してはさまざまな観点から批判が加えられ、有村さんも「自己批判」エントリを書いている。「プロ」についての議論はひと段落していると言えるだろう。
ここで私はブログで寝言を垂れ流している「文章のアマチュア」としての立場から議論を提起しよう。
有料の同人誌などをつくって配布するときに、印刷にかかった原価だけのような値段のつけかたをすべきではない。不当に高い値段をつける必要はないが、かけた手間に応じて相応の対価を求めるべきだと思う。
文章を書くのにかけた時間を無償としてはならない。「無償で商品をつくってはならない」というのはそういうことである。
なお、ブログはプロモーションなどの他の利益があるときにあえて直接現金はとらず、無償で提供するものであるが、本論とはあまり関係がないので触れない。
ここで私の言うアマチュアという言葉の定義を明らかにしたい。私は流通形態によって形式的に「商業」「インディーズ」などという分類はしない。その代わりにここでは「資本主義の論理で動いており、かつ、実際にその活動によって生計を立てることができている」ということをプロと定義したい。アマチュアはいずれにもあてはまらない存在である。
ちなみに、資本主義の論理で動いているが生計を立てそこなっているのは「ワナビー」(WANNABE=want to be 転じて、なりたいだけの人)であり、資本主義の論理では動いていないにも関わらず、生計を立てることができているのは「(売れっ子)芸術家」であるが、ここでは詳述しない。
対価を求めろといいながら資本主義の論理で動いているのではないのがアマチュアだというのは矛盾しているように見えるかも知れない。しかし、後述のようにそれは矛盾するものではない。そして、この基準で考えてみたほうが、プロとアマの違いをより良く理解できると考えるのである。
「買う人がいないから値段を下げる」という行動は資本主義的な論理である。それは需要と供給のバランスという市場メカニズムに基づくものだからだ。商売の原則としてあまりにもあたりまえのものであるから、それが資本主義の論理であると分からない人もいるかも知れない。
そして、自称アマチュアの人たちが無償でモノを提供するとき、本人の主観はどうあれ、実はこの資本主義の論理に飲み込まれてしまっていると考えられるのである。
道楽でやっているから無償で、あるいは安い値段で提供する──このような物言いはよく聞く。しかし、なぜ趣味や道楽でやっているものは値段が下がるのか。
趣味や道楽でやっているものは商業よりも質が劣るから値段が安くなるという言い方もあるかも知れない。本当に道楽や趣味でやっているものが品質的に劣るのかどうかはともかく、仮に趣味や道楽でやっているものは品質が劣るとしよう。ではなぜ品質が劣るものの値段が下がるのかというと「質の低いものを買う人は少ないから」値段が下がるのだということになる。
すなわち、需要と供給のバランスによって価格が設定されているということである。
自称アマチュアのひとたちは無償かそれに近い形で製作物を提供することで、プロと一線を画していると思うかもしれない。しかし、意識的か無意識的かは知らないが、資本主義の論理に組み込まれてしまった人たちを、本当のアマチュアとは呼びたくない。
労働の対価を求めるのは、プロ、アマを問わず当然の行為である。それは資本主義とは直接関係がない。
共産主義は生産手段の共有によって資本家による搾取を防ごうと考えるが、労働の対価そのものを否定しているものではない。無償での奉仕を善とするのは、なにかの宗教である。
ではプロとアマの違いなんだろうか。それは、労働の対価を求めた結果として、それを実際に得られるかどうか、そしてそれで生計を立てていける金額に達するかどうかの違いである。すなわち、プロとアマはその結果において異なっているのであって、行為において違うのではない。アマチュアが時間をかけて物を作ったのなら、その労働時間に見合った分の値段をつけるべきである。
値段をつけた結果、売れなかったら苦しいかも知れない。痛みを感じるかも知れない。しかし、そうすることでしか、なにかを生み出すことの喜びが生まれないのではないかと思う。
自分が製作したものを有償提供するインフラは整っている。それはコミックマーケットコミケ)などのイベントである。コミケにおいては、漫画のみならずさまざまな自主制作物を出品することができる。「情報・評論」というジャンルで評論誌を販売している事例もある。
コミケへの出展は、自分で出版社を起業して書店に営業周りして……という苦労をせず、はるかに簡単に製作物を販売することができる。動画や音楽ならCD―ROMに焼いて販売する。
また、コミケによらず、インターネットをつかって通信販売をするということもできるだろう。
残念なことに2ちゃんねるニコニコ動画などは資本主義の論理によって動いている。以前のエントリで書いたように「疎外」から解放することも可能であるが、ひろゆき達による「搾取」の構図はそう簡単には崩れないだろう。2ちゃんねるは、大量の人が集まることで談論風発、そしてネタを触発するインフラである。これを握っているひろゆきは強い。
いっそのこと、2ちゃんねるコテハンをつかって宣伝・営業をする場だと割り切ってしまったほうが気分が良いかも知れない。
さて、結論をまとめる。アマチュアだからといって対価を求めないという姿勢はやめよう。自分がかけた製作時間に応じて値段をつけ、売ることによって対価を得るという構えを見せよう。そうやっても生計を立てられるほどのお金を得ることはできない。それがアマチュアだ。そこで売ろうとして資本主義のルールに乗っかり、安い値段で製作物を提供してはならない。

関連エントリ


プロは無償で商品を作ってはならない 三浦健太郎氏がイラスト作成を無料で引き受けたことに対する有村悠さんの批判。

自己批判してみるよ 上記エントリに対する批判を受けて書かれたもの。

「嫌儲」と「疎外されたネタ生産」 2ちゃんねるなどの出版では、参加者が「疎外」されているとする、俺のエントリ。

「嫌儲」と「疎外されたネタ生産」


──ニコニコ動画なんか知るか。

2ちゃんねる系のまとめサイト、出版が中心の話です

2ちゃんねる系のまとめサイトや出版は嫌われるのは、コミュニティの参加意識を無視することが最大の原因である。僕はそういうふうに考えている。簡単に言ってしまえば、編集・出版過程において書き込みに参加したたちの感情や思い入れが無視されるということである。
僕も自分が匿名で書き込んだスレッドが2ちゃんねる系のブログに紹介されたことがある。そこで感じたのは、レスの抽出の仕方にはブログの運営者の主観が出ているということである。もちろん編集の際に主観が混ざるのはやむを得ないことである。しかし、その編集過程はブラックボックスである。もしこれが投票による「人気のあるスレッド」が紹介されたというであれば、不本意だとは感じず、むしろ自分の参加したスレが高評価だったということで喜びすらしたかも知れない。あるいはスレッドそのものの選定はサイト運営者の意思によるものであったとしても、そのなかで一番笑えたレス、感動したレスに投票できるのであれば不本意だとは思わなかったかも知れない。
しかし現実の2ちゃんねる系ブログに対しては、どうしても不本意だという気持ちが抑えられなかった。残念ながら僕が2ちゃんねるに書き込んだレスが書籍に掲載されたことはないが、仮に不本意な形で引用されたまま出版にまで至ったら、不本意さを通り越して怒りを感じたであろう。怒りの本質は、ネタを生み出すことによる喜びが踏みにじられることによるものである。
これは左翼用語を使うなら「疎外」だ。
2ちゃんねる系ブログや出版の問題で「儲け」の部分を争点とすべきではないという意見がある。この論者によれば、他人が儲けることを攻撃するのは、資本主義というものを理解していないというのである。
しかし、ことの本質が「疎外」であるならば、嫌儲は、きわめて明瞭に、モノ(ネタ)を作り出すことの喜びを奪った「資本主義」に対するアンチテーゼとして捉えることができる。すなわち「嫌儲」は骨の髄まで反資本主義的であると言えるのだ。彼らに対して、いまは資本主義の世の中なんだから……などとしたり顔で語ってもお話にならない。有無を言わさず徹底的に弾圧する側にまわるか、疎外の問題に対して真摯に向き合うかである。
2ちゃんねる系のまとめサイトや出版は、これまでのような編集者による編集がなじまない世界である。従来の出版物であれば執筆者と編集者の一対一の議論が可能だった。
最近、漫画家と編集者との対立が言われている。しかし、いくら対立があったとしても、漫画家の側が編集者との話し合いに加わることすらできないということはありえない。
従来の出版物のなかでインターネットの編集方式に一番近いものがあるとすれば「読者投稿欄」であると思われる。これは投稿されたハガキに対して、編集部が採用・不採用を自由に決めている。これは、投稿者は編集者の意のままにされていたと言えるだろう。
だがこれは編集部がコンテンツを「生み出す」段階から参加しているのである。だからこのシステムによって、投稿者がネタを生み出すことの喜びを奪われたとは感じない。あくまでも生み出したネタが評価された、されなかったという苦しみである。
2ちゃんねるにおいては、自分なりにスレの空気を読み、そのうえで自分の意見を書き込む。すなわち、スレッドの流れそのものを自分で生み出そうとする意図が働いている。それがあとから来た第三者によって好き勝手に編集され、あげくのはてに出版されてしまえば、そこに「疎外」を感じてしまうのは当然のことと言えよう。 
もちろん、2ちゃんねらーの手前勝手な意見をすべて呑んでいたら「商業出版」の体をなさないだろう。どんなに盛り上がっているスレッドであっても、参加しているのはせいぜい数千人であろう。それは数十万、数百万部単位で行われる出版とはまったく性質を異にするものだ。
また、スレッドに参加している人間は、多少なりともそのスレッドに対する愛着が生まれるであろう。したがって、スレに参加している人間はどのスレを出版すべきかということについて公正中立な判断ができない。したがって、そもそもどのスレッドを出版するかという部分においては、スレッドに参加している者の意見を聞いていたら基準がブレる。編集者・出版社の判断によって出版するかどうかを決めるべきなのだ。
また、どのレスを引用すべきかということについては スレッドへの参加者がそのテーマに対して持っている考えによって大きく見解が変わる。それに自分の意見に近いものほど、印象に残るからだ。どんなに公正中立になろうとしても「自分の意見に対して有効であると思える反論」を重視してしまう嫌いがある。そして自分が重要だと考える論点が掲載されなかった場合、それは強い不満となるだろう。まったく違う意見の持ち主から話を聞いてレスを選んでいったら、ほとんどのレスが掲載されることになる。出版としての体をなさなくなる。
しかしそうは言っても、技術的な改善、そして意を尽くしたコミュニケーションによって、「嫌儲」を「疎外」から解放すべきだ。まず、出版されると決まったら出版の対象となるすべてのログを公表する。そして各レスの脇にはチェックボックスを表示し、笑えるレス、感動したレスなどに投票できるようにする。もちろん、投票結果を不満に思うものもいるだろうが、それでも編集者の独断(と思われているもの)よりは正当性を持つであろう。そして編集者・出版社はその投票結果を見ながら編集をしていく。どうしても倫理上問題があって掲載できない部分については、その旨きちんと伝えていく。そういうことである。

快楽殺人かどうかは関係なく、酒鬼薔薇は「荒波世代」を語るうえでの重要な事件である。


前回のエントリに対するブクマコメントで、いくつか指摘があったので答えておく。


id:nessko
他の同年代が起こした事件は知らんが、酒鬼薔薇は性的な動機による殺人だったでしょ? あれを世代論で語ろうとしたのがまちがいだったんだよ。

id:michiko78
酒鬼薔薇は動物解剖で初めて性的興奮に目覚めた、快楽殺人者だったと言う、重要な点が欠落しているエントリー/酒鬼薔薇世代などと言う、言葉の濫用こそが問題

僕は前回のエントリで少年Aの性癖に関する記述を書かなかった。それはあえて書いていないのだ。なぜならば、それは僕の世代論を語るうえで必要がないと考えたからだ。


快楽殺人だから世代論として語れないというのは間違っている。

まず、マスメディアは彼の小学校のころの卒業文集、犯行前後にノートに書いていたこと、そして周囲に語ったことなどを活字にした。彼の本意がどこにあるかはともかく、人の生命に特別な意味はあるのかという問いは転じて「なぜ人を殺してはならないのか」というふうになった。それがメディアを通じて同世代、そして同時代人に伝わったのはご存知の通りである。僕は前回のエントリで、行為そのものよりも、それを同世代の人間としての僕がどう受け取ったということを語っているのだ。

また、快楽殺人鬼だからといって同世代の人とまったく違った考え方を持っているとは思えないということだ。

もちろん、彼の犯罪行為そのものは快楽殺人である。言ってみれば「下半身」が引き起こしたものだ。そんなことは百も承知である。彼が被害者である児童の首を締めたときに射精したことが報じられたこと、性的サディズムが原因であると家裁の審判においても触れられたことは事件当時の報道や書籍を読んで知っている。彼が起こした犯罪行為は、彼の特殊性に基づくものだと言えるだろう。ありていに言えば、普通ではない。

しかし、少年Aが阪神大震災に絡めて、村山首相に対するテロ宣言とでも言うべきものを書いたのは、彼がそのような性癖を持っていたからではなかろう。卒業文集は一般的に教師の検閲が入るものだ。その検閲を通ったということは、当時、教師でさえも認めざるをえないほどの深い悲しみと怒りが社会一般に広がっていたからだと考えられるからだ。つまり、彼は当時の社会のなかで普通の少年として阪神大震災に対する感想を書いているのだと思う。これは同世代の発言である。

たくさんの無辜の人が死んだ阪神大震災があったということ。そして首相に対する発言や、人の命はゴキブリと同じという発言。そこには一貫して人間の命に対する「軽さ」を感じる。

少年院を出たあとの彼は発言をしていないから本心でどう思っていたのかは結局のところ想像に過ぎない。けれど、その「思想」自体は彼を殺人に駆り立てた性欲の本体ではないということだけはたしかだ。文意からは彼が当時おかれていた状況を受けて考えていたこと──少なくともその断片──だと思われるのである。


前回のエントリは、以上のことを踏まえてお読みください。

酒鬼薔薇世代に必要なのは新しい名称と新しいイメージだ



村山さんが、スイスの人たちが来てもすぐに活動しなかったので、はらが立ちます。ぼくは、家族が全員死んで、避難所に村山さんがおみまいに来たら、たとえ死刑になることが分かっていても、何をしたか、分からないと思います。


これは神戸連続児童殺傷事件の犯人が小学校の卒業文集に書いていた文章である。阪神大震災の被災体験を書いたものであり、「村山さん」とは当時の総理大臣、村山富市のことである。

一国の総理大臣への「テロ宣言」とも読み取れる文章を卒業文集に掲載した教師が不見識だったと言えるだろうか。教育の不備としてあげつらわれるべきだろうか。僕はそうは思わない。

社会を震撼させた大地震は、少年にさまざまなことを考えさせた。それが卒業文集に残っていた。それだけである。

「個の尊重」教育が問題だったのか?


僕は酒鬼薔薇世代だ。1983年生まれ。神戸の連続児童殺傷事件が起こったときには中学二年生だった。当時のことはよく覚えている。そこで今回は僕から見た僕の時代を語ってみることにしたい。


 「自尊感情や他人の痛みが分かる心が育っていない。他と切り離された『個』の自立を重視し、他者とのつながりの中で生かされている自分を発見し、社会に参画する力を育てることをやってこなかった」
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080621/crm0806212257025-n2.htm

教育は地域によって違ういうような意見もあるが、東京の郊外にある町で育った僕は「個を尊重する教育」を受けていたと言えると思う。しかし、個を尊重する教育なるものが僕をつくったとは思えない。

僕が中学二年生のときに『ゴーマニズム宣言 戦争論』が発売された。それを読み、リベラルっぽいことを言っている社会科教師に議論を吹っかけたこともあった。しかし、その教師は「そういう考えもありますね」としか言わなかった。その限りにおいて、僕は学校教育から「個」(思想信条の自由)を尊重されていたと言えるのだ。

それが良かったのかどうかは分からない。しかし僕は「(産経が嫌いな)自虐史観だとか 左翼の型にはめられなくて良かったじゃないか」と毒づきたくなる。「個の尊重」なるものは、それ自体では毒にも薬にもならないものだ。

それにいくら「個の尊重」って言ったって、殺人を肯定するような発言まで尊重していたわけではない。中学時代にはそういうことを言う奴もいたが、さすがに教師から他人の痛みが分からないのかと言われていた。僕自身は根本的に他人の痛みが分かるはずはないと思うが、一応そういうことを教えられてはきているのだ。

「時代の激変」のなかで思春期を迎えた世代。名をつけるなら「荒波世代」「革命世代」だ。


僕は時代の激変を感じ、それに対して自分なりに考えてきたつもりだ。小学生のころには五五年体制が終焉し、非自民政権である細川政権が成立した。さすがに小学生に細川政権の何たるかは分からなかったが、親をはじめとする大人たちが言っていることを聞いていれば世の中が変わったんだということくらいは理解できた。九五年には阪神大震災地下鉄サリン事件。中学生になるとインターネットの普及が始まった。

そして酒鬼薔薇事件。少年Aが阪神大震災について言及するなかで総理大臣へのテロ宣言とでも言うべきものを書いていたことは先述の通りだ。たくさんの人が死んだ阪神大震災は、彼にどのような影響を与えたのだろうか。本当のところは分からない。

事件後、メディアが犯人の少年の発言を報じた。いわく、人の命はゴキブリと同じではないかと発言していた、と。この報道によって、僕も人間の生命の価値はなんなのかということを考え始めた。「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いかけに対して答えを見つけようといろいろと考えた。それは決して人を殺そうと思っていたわけではなく、考えていたのだ。「人間は社会契約によって国家をつくっている。人を殺しても良いが、それは社会契約に対する違反・反逆として死刑にされる」というような結論に達したのは高校生になってからである。

あの頃、社会は激変していた。根本的な倫理道徳すら揺らぐなか「自分で考えるしかなかった」としか言いようがない。中学生のころに『ゴーマニズム宣言』に感化された世代などとも言われるが、感化というにはあたらない。なにしろ僕は「朝日新聞」の広告でゴーマニズム宣言を知ったのだから。小林よしのり氏が朝日新聞を批判しているのを見て「徹底的に議論しろ。何が真実なのかを明らかにせよ」と思った。

こういう時代にあって、なにかの思想を押し付けるような教育だったとしたら、到底うまくいかなかったろう。河上氏の言うように、あの時代に自立だとか個の尊重ということが重視されていたとするならば、それは激変する社会に適応した最善のことだったのかも知れない。

そして今、時代の激変の結果として格差社会となり、それを自己責任とせざるをえないキツさ。


気付けばそれから十年経った。時代の激変の結果、格差社会が生まれた。


「勝ち組はみんな死んでしまえ」という加藤容疑者の書き込みについて、河上氏は「いい大学を出て、一流企業に就職するのが幸せで『勝ち組』だという価値観が、若い人を追い詰めている」とみる。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080621/crm0806212257025-n2.htm

なぜ意図的に「勝ち組」という言葉の意味を矮小化するのか。たしかに一流企業に就職した人間を勝ち組と呼ぶこともある。しかしそういう人間だけを勝ち組と呼ぶのではないだろう。

ステータスを持つことが幸せだと信じている人間は少なくなってきたように思う。現実に即して「幸せ」ということを考えるようになってきているように思う。「お金」「女」などの基準、あるいはそういう価値観から背を向けて「スローライフ」なんていうのもでてきた。

「お金」という価値観については、一定の結論が出た。東大を出てライブドアを創業した堀江貴文、京都大を出てはてなを創業した近藤淳也社長(id:jkondo)などを見れば、自由競争においてもやはり高学歴が有利だということが明らかになってきたのである。能力ということもあるし、学閥、すなわち人脈というのもあるだろう。

僕は「勝ち組」になることはできなかった。学歴もなければ、起業をしたわけでもない。それは自己責任で受け入れなければならない。社会が悪かったという責任転嫁はできないように思う。なにしろ、僕らの成長期に、社会は壊れていたのだ。自分で考え、自分で行動した結果、いまここにいる。

「荒波世代」「革命世代」は各人が強烈な個性を持った世代である。人格を規定するな。


さて、僕らの世代に他の名前がついていないのか調べてみたところ、どうも「プレッシャー世代」という名前がついているらしいということが分かった。しかし、これが普及しているとは思えない。何しろその命名を伝える記事で、この世代には名前がないので無理やりつけた、と書いてあるくらいなのだ。

僕の世代には、名前がつけにくい。ここまで読みすすめた読者の方には、その理由が分かってもらえると思う。時代の激変を感じ、そのなかで自分で考えてきた世代だ。だから各自が強烈な個性を持っている、と思う。それに、格差が生まれており、生活水準も天と地ほどの開きがあるだろう。それゆえに名前がつけにくいのだ。

その結果、産経新聞から「酒鬼薔薇世代」などという偏見に満ち溢れた名前をつけられても、それに対抗するような名前をつけにくい。僕だって世代によって人格を規定するような馬鹿げたことはやりたくない。だから、時代の激変とともに成長した世代ということだけを示すために「荒波世代」「革命世代」と名前をつけたい。

遅刻時の「連絡」のルールを変えれば、待たされるストレスは溜まらない。

携帯を持っていれば連絡ができるはず、という幻想こそ問題。


携帯電話の普及後、遅刻のときには『待たせる側』が連絡をすることがマナーであるとされる風潮になっている。「実は××で…」と遅刻の言い訳をしようものなら「何で連絡しなかったんだ」という風になる。


人は必ずしも連絡を取れるわけではない。秋葉原通り魔事件の際に負傷しながら勤務先に連絡を取った人がいる。そう週刊誌で報じられていた。電話を掛けたことが悪いことだとまでは言わないが、これを美談としてはならないと思う。そんな時にはまず自分の体を気遣うべきだろうし、倒れている人がいたら手を貸すべきだ。勤務先への連絡なんか、最後で良い。


さて、最近、「地下鉄の遅れで面接に遅刻し連絡もできなかった学生」について言及した、以下のようなエントリがホッテントリ入りした。


副都心線は世界を変える、あなたがそれを望みさえすれば


このエントリには賛成できない。理由は2点ある。


まず、この問題は時間を気にする気にしないの問題ではなく、携帯電話の生み出した幻想の問題だと思われるからだ。すなわち、携帯電話を持っていればどこからでも連絡できるはずだと思われているということだ。ここから「待たせる側」が遅刻時に連絡をしてこないのは不誠実であり、マナー違反だというような話になっているのだと思う。実際にコメント欄を見るとそのような意見も散見される。


また、そもそもエピソード自体が「作り話」ではないかという指摘がある。ありがちな話だからモデルケースとして良いという意見もあるが、どうしても違和感がぬぐえない。それならば2ch系ブログからの引用ではなく「このような話があったとする……」という仮定でよいと思われるからである。


有村悠id:y_arim)さんはブックマークコメントでsjs7の記事に対して、なんと「真っ当な問題提起の良記事」と言っている。何をもってそう言っているのかまったくもって理解に苦しむところである。問題提起としての意味はある。しかしどう考えても真っ当でもなければ良記事でもない。あれは単に物議を醸したというのである。

「待たせる側」の「言い訳」を待つのではなく、「待つ側」が携帯メールなどで「どうするか」を決めてしまう。


「待つ側」が遅刻に対してどうするか判断を下すということだ。「待たせる側」からの応答があればもちろん話は聞くべきだが、応答がないようであればメールで一方的に通告してしまってよいと思うのだ。たとえば何かの待ち合わせなら「あと5分待ったら、私は先に映画館のなかに入ってます」などと言ってしまう。さきほど出ていた面接なら「10分以上遅れたらその日の最後に面接をするか日を改めることになります。事情はあとでお伺いします」などと一方的にメールで通告してしまう。そうすることで待たされることによるストレスを軽減することができるし、また、何らかの理由で応答できない状況におかれている「待たせる側」に対して、連絡しなければならないというプレッシャーを強いることがないのである。


付け加えるなら、連絡の手段として電話は避けるべきだと思う。約束の時間に相手が来ないと、しばしば、「待つ側」から、電話を入れて「どうしましたか?」と連絡する場合がある。しかし「待たせる側」は何か非常事態に巻き込まれているのかも知れない。非常事態に巻き込まれていなくとも、駅での待ち合わせの場合、約束に遅れた相手がまだ電車内にいるというのはよくあることだ。自分も、電車やバスのなかで待ち合わせの相手からの着信があると悩んでしまう。ときどき「すみません。今電車内なんで…」とだけ言って電話を切るサラリーマンを見たこともある。マナーを弁えているひとは電話を掛けた際「いま、大丈夫ですか?」と聞くが、約束遅れの場合にはそもそも電話を掛けないほうが良いと思う。


私の提案はこれまで「マナー」と称されてきたものとはずいぶん違う。しかし、これらは「待つ側」の考えひとつで決めることができる。遅刻時の連絡のルールを変えて、待つ側、待たせる側、お互いにストレスのたまらない社会にはできないだろうか。

渋谷はテラ難しいんだよ田舎者!

コメント欄に変なのが沸いた。

先日のエントリ「渋谷はそんなに難しくねえよ田舎者!」のコメント欄に変なのが沸いてきた。

女子高生 2008/06/20 01:35
渋谷に詳しいsyujisumeragiさん、今度上京した際洋服を買うのにつきあっていただけませんか?


非モテの俺は渋谷で女と一緒に洋服を買ったことなどない。俺は渋谷に行ったら、ツタヤをうろうろするか、ブックファーストで立ち読みするかドンキかロフトで雑貨を見てるんだよ。もちろんいつもはひとりで行ってるんだ。洋服買うのなんかに付き合ってられるか。

都会は「自分の感覚」でしか理解できないし、そういう形で理解しているのが都会人だと思う。

一般論として言うと、都会人なら何でも知っていると思わないほうがいい。自分が行ったことのあるところ、利用したことのあるところは即座に答えられるが、そうでなければ、地図でもない限りは答えられない。先日も「この近くに××クリニックというのがあるはずなんですけど……」とか聞かれたことがあるが、自分はまったく知らなかった。たぶん、その辺歩いてる人間の大半は知らないと思う。都内には病院が腐るほどあるから道を尋ねた相手が行きたい病院を使ったことがあるとは限らない。「最近東京に出てきたばかりなもんで……」とか言うな。俺だってビルの一角でひっそり営業しているクリニックの名前なんて初めて聞いたよ。都会というのは、個人で処理できる情報量を超えている。

だから逆に自分自身の感覚として街を理解していることが「都会人」であることの証明になる。田舎から東京に出てくる人は、メディアから得た「東京」の知識ばかり喋っていると馬鹿にされるということを覚えておいたほうがいい。インターネットもメディアだ。いろいろな人が書いていることを総合していけば多少見えてくる部分もないわけではないが、どうしても不完全だ。実際に各駅を歩いてみて、自分の感想を言うようにするといい。自分自身で感じたことならば、それほど馬鹿にはされないと思う。

id:zaikabouさんからブクマコメをいただいた。

zaikabou 理屈ではそのはずなんだけどねえ。自分にとっては、新宿は理解できても渋谷は理解できないんだよな。多分、単純に、慣れとか好き嫌いの問題だと思うんだけれど

ぶっちゃけると俺も新宿に行っていた回数、時期のほうが長い。だから自分は渋谷の人ではない。だから新宿と渋谷のどっちが難しいかと問われれば、渋谷のほうだと答える。渋谷の駅構内で迷うことはないけれど、駅の外をどの程度理解しているかと言われるとはなはだこころもとない。

渋谷にちょこちょこ行くようになったのは、せいぜいこの2年くらいだ。渋谷駅の構造は先に地図で平面の位置関係を覚えて、そのあと高さをイメージするほうが理解しやすかった。2年たったし、それ以前にも渋谷に行ったことはあったから、渋谷にもいろいろな思い出がある。けれど僕は到底渋谷のことを理解しているとは言いがたい。

ただ、渋谷駅は他駅と比べてそう難しい構造でもないだろうと思ったから、そう言っただけだ。渋谷で迷った人にしてみれば、東京の未知の駅でキツいものは多いだろうと思う。渋谷がとりたてて分かりにくいのではないと思う。僕は池袋で案内標識が不親切で迷ったことがある。

さて、子供のころから行っていた新宿では、いろいろな店が消えるのを見た。まず、家族で連れ立って新宿に行ったとき、ゲーセンの画面に目を奪われているうちに、家族とはぐれてしまった記憶がある。自分でいろいろ歩き回って家族と再会することができた。そのときのゲーセンは、いまはもうない。

あと、父とふたりでパソコンを見に行った思い出がある。最終的にそのときにパソコンは買わなかったが、昼ごはんはラーメン屋に行ったこと、そのラーメン屋がたいしてうまくなかったこと、そしてもう一度父とふたりで新宿に行ったところ、また同じ店に連れて行かれたことなどをはっきり覚えている。小学三年生か四年生のころのことである。最近行ったら、その店もやはりなくなっていた。たいして旨いとも思わない店だったけれど、なんだか切なくなった。

自分の時間軸で現在の都会を語ることができるのであれば、たとえ街のすべてを歩き回っていなくとも、都会人だと言える。極端な話、ある時点で、街の中を同じように歩き回ったとしたら同じものしか見ることができない。しかしここに自分の過ごした時間が加わることで、自分しか持ち得ない個別の感覚で都会を理解しているということになるだろう。

けだし、数ヶ月ごとに東京に出てオフ会に出てきていて遊んでいる人は、やがて自分の時間軸で現在の都会を語ることができるようになる。そうした人は都内のマンションの一室でひきこもっていた人よりは都会人であると言えると思う。都会人というのは必ずしも都会に住んでいる必要はないのだ。